関東大震災から100年 特別企画

 

岩淵水門が示した「コンクリートの威力」

 

2023年は、 1923年(大正12年)91日に発生した関東大震災から100年の節目です。荒川放水路の工事現場も被災しましたが、その一方で開削中の広い河川敷に約15万人が避難するなど、荒川放水路には震災にまつわるエピソードがいくつかあります。その中から荒川放水路と「コンクリート」との関係についてご紹介します。

 

 

関東大震災の被害

 

2024年に通水100周年を迎える荒川放水路。関東大震災が発生したのは通水の前年1923年のことでした。マグニチュード7.9の激しい揺れが発生したのはお昼時の11時58分。多くの家で昼食の支度に火を使っていたことから火災が発生し、当時の東京市の全面積44%にあたる約3,465ヘクタールが焼失し、死者は約10万人という未曽有の災害となりました。

 

関東大震災の状況(厩橋)
関東大震災の状況(厩橋)

 

荒川放水路工事現場の被害

 

関東大震災は荒川放水路の工事にも影響を与えました。地震による最も大きな被害は堤防で、陥没や亀裂、滑りなどの被害が20箇所あまりにのぼりました。

完成したばかりの堀切橋も崩壊し、翌年に架け直されました。

 

関東大震災後の護岸のようす
関東大震災後の護岸のようす

 

岩淵水門は被災しなかった

 

しかし、工事中だった岩淵水門はビクともしませんでした。当時としてはめずらしい鉄筋コンクリート工法を採用していたからです。

それでも、現在の旧・岩淵水門(赤水門)には、わずかですが、震災のなごりを見ることができます。

 

建設当時の旧・岩淵水門(赤水門)(左)と、関東大震災のとき赤水門の壁面に入った亀裂(右)
建設当時の旧・岩淵水門(赤水門)(左)と、関東大震災のとき赤水門の壁面に入った亀裂(右)

 

当時の
鉄筋コンクリート工法とは

 

現在ではメジャーなコンクリ―トも、荒川放水路建設当時、国内では実験段階のめずらしい工法でした。岩淵水門は、軟弱地盤のコンクリートを使用する土木工事としては国内では初の事例でした。

 


青山 士 氏

 

青山 士の信念

 

岩淵水門の設計者である青山 士(あきら)氏は、日本人でただ一人、パナマ運河の建設に携わった技術者です。帰国後、内務省(現在の国土交通省)に入り、荒川放水路開削工事に参加。
岩淵水門を設計することとなった青山氏は、その建設地が底なしの軟弱地盤であることから、パナマ運河で得た知見を生かしてコンクリート工法を採用します。

鉄筋コンクリートの枠を川底よりさらに20メートルの深さに埋める構造は、内務省首脳の反対にあい、基礎工こそ妥協案として首脳の意見を取り入れたものの、それ以外は譲らず、自らの信念にしたがって建設を進めました。

青山氏が首脳の反対を押し切ったコンクリート床板
青山氏が首脳の反対を押し切ったコンクリート床板

 

関東大震災で見直された
コンクリート

 

木造建築が主であった当時、関東大震災で甚大な火災被害があったことから、鉄筋コンクリートが注目されるようになりました。住宅だけでなく、木造が本来であるとされた宗教施設も例外ではありませんでした。

築地本願寺
関東大震災では倒壊はまぬがれたものの火災により伽藍を焼失。1934年(昭和9年)に建設されました。鉄筋コンクリート工法を取り入れた本堂は、重要文化財に指定されています。

神田明神
関東大震災では火災により社殿が焼失し、「二度と燃えることがない建物を」という願いから、鉄筋コンクリート工法が採用され、1934年に再建されました。


 

先見の明を示した岩淵水門

 

鉄筋コンクリートの建設は小学校にもおよびました。関東大震災後に実施された帝都復興事業の一環として、「復興小学校」と呼ばれる鉄筋コンクリート造りの小学校が次々と建てられました。中央区の泰明小学校もそのひとつです。

 

関東大震災の被害により、岩淵水門は当時マイナーな工法だった鉄筋コンクリート工法の優秀性を期せずして示すことにもなりました。
以後、東京の町並みがコンクリートでつくられていったことを思うと、岩淵水門は日本の建築史を変えたひとつのきっかけと言えるのではないでしょうか。
首脳の反対を押し切ってコンクリートにこだわった青山氏の先見の明にも驚かされます。


 

そして今も

 

関東大震災後から100年。あの甚大な被害に見舞われた首都圏は今、首都直下地震という新たな脅威にさらされてます。
しかし、自然災害の発生を止めることは無理でも、被害を最小限に食い止める努力は今からでも誰でも可能です。
関東大震災100年の節目をきっかけに、震災とその後の復興に学びながら、地震のみならず、水害、土砂災害などの自然災害とどのように向き合っていくか、これからも流域に住む皆さんといっしょに考えていきたいと思います。